読者のみなさん、はじめまして。1987年生まれ。現在山形県在住の飯塚咲季と申します。東北芸術工科大学を卒業後、いまは、何かに1つに依存しない自立型の暮らしをつくっていこうと、布と食にまつわる仕事で主に生計を立てています。
アトリエに居ずらくなって右往左往。10年前の私。
アトリエに籠って絵を描く意味とは?
どうして締切があるの?
先生の評価ってなに?
今から10年前。洋画専攻の大学1年生だった私は、いざ絵を描くための時間と空間が用意されてみると、困ってしまいました。
高校生までは、椅子に座って先生の話しを聞いて、勉強を頑張っていればよかった。
その受験勉強というお仕事を定年退職し、大学という新しい環境に身を置いた時、自分がここで何を学ぶのかは自分自信で決めることができる、という自由さに直面したのです。
どうにもアトリエに居ずらくなり、深い穴を掘ったり、秘密基地をつくったり、空き地を開墾してみたり、野良犬のようにしばらく右往左往する日々が続きます。(今思えば突っ込みどころ満載です。)
そんな心境の中でアトリエの外へ興味がわき、 中山間地域にある廃校をお借りして年に1~2カ月ほど滞在し制作活動を行っていました。 地域の事を知らなければ何も作ることができないと思い、 散策し、藁細工や染色、郷土料理を教わったり、お祭りに参加していくうちに地元の方と仲良くなります。 新興住宅地に育った私にとって、地域の人のつながりを肌で感じたのは初めての事でした。
地域の人から届いた大量の野菜が大きなきっかけに。
次第に地元の方々は、私たちが何もない廃校に滞在していることを知ると、大量の野菜を持ってきてくれるようになりました。
そこでふと、なぜこんなに沢山の野菜をくれるのかと疑問に思いました。
聞いてみると、
「作物は天候に左右されるから少し多めに作るものだ。」
「規格外のものは出荷できないから捨てている。」
ということを教えてくれました。
「こんなに美味しい野菜が捨てられているのか……」
それが新たな活動の源となりました。
農家さんに聞いて回ったり、中央卸売市場へ取材に行ったり、統計庁の数字をみて、やはり沢山の野菜が廃棄されているのだという事実を知ります。
やおやさん開店!
山に捨てられていたリヤカーを拾い、金属工芸棟の機材を借りて溶接。
近所のバイク屋さんからベアリングの直し方を教わり、タイヤがまわるようになり、
竹とキャンバスでつくった幌をつけ、リヤカー式やおやさんの出来上がり!
アトリエで作品を作る意味に悩んでいた私は、気付けば仲間達と
規格外の野菜を販売する「やおやさん」を始めていたのです。
週に2回、空き地を借りて開催した「やおやさん」では沢山の人と出会いました。
協力してくださった農家の皆さん。いままで関わる事のなかった学生や先生を始め、ここが散歩コースなのというご夫婦、近所の幼稚園にお迎えに来たお母さん……。
予算はないけど、ヤル気とエネルギーがある!
それに沢山の大人たちの応援があったから実現した「やおやさん」でした。
自分でつくってみて気づいた。死ぬまで終わらない暮らしそのものを自分の手で作りたい。
そうしてなんでも自分で作ってみることで
「低予算でも、手弁当でも、人とのつながりと、それから大地があれば人は生きていけるのかもしれない。」
「案外、仕事は自分で作れるものだ」
と思うようになりました。
今思えば、ジャイアンの名言「俺たちバカで良かった」が頭をよぎるわけでもありますが……
興味のまま、なんでも自分たちでやってみる。
粗削りで、土臭く、大人に迷惑かけながら、突き進んでいた学生生活。
その時は分からなかったけれど、今だからわかること。
それは、私が作りたかったものは締切で仕上げる作品じゃない。
死ぬまで終わらない暮らしそのものを自分の手で作りたかったのだ。ということ。
きっかけはアトリエで感じた疑問から。
大きな何かに寄りかからずに、仲間と共に自分の足で歩いたこと。歩いていけるのだという事。
それが今の私の暮らしにそのまま息づいています。
私が自立型の暮らしをつくろうとするきっかけになった、大学時代のエピソードを紹介しました。
PARTNERでは今後、そんな私の暮らしにまつわるいろんなことを紹介していきます。
どう生きる?どう暮らす?どう働く?そんな誰しも直面する大きなテーマについて、考えるきっかけになれたら嬉しいです。
次回の記事では、「やおやさん」をやってみて気づいた「お金の話」を書いてみようと思います。
山形県在住。2015年9月より群馬県吾妻郡高山村に移住予定。 東北芸術工科大学を卒業後、針仕事集団艸絲の運営や、大学の畑指導で主に生計を立てている。何かに1つに依存しない自立型の暮らしをつくっていきます。