五十嵐太郎
1967年生まれ。建築史・建築批評家。 1992年、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。 現在、東北大学教授。 あいちトリエンナーレ2013芸術監督、第11回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展日本館コミッショナーを務める。 第64回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。 『現代日本建築家列伝』(河出書房新社)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)、 『おかしな建築の歴史』(エクスナレッジ)ほか著書多数。
松葉:「Outsider Architect」の第4回は、建築史家で東北大学教授の五十嵐太郎さんにお話を伺って行きたいと思います。今回は若手建築家の一人として、塚越宮下設計の塚越智之さんにもお話に加わっていただきました。
今回主に、以下の4つのトピックについて話を伺いました。
1:持ち家政策と時代のズレ
2:街の何を残し、何を加えていくか
3:都市について語ることの重要性
4:設計/デザインするということに対する社会の理解を深める
1:持ち家政策と時代のズレ
松葉:五十嵐さんはご自身の著作において、太平洋戦争から東日本大震災に至る間の建築家の活動を社会との関わりから論じられていらっしゃいますが、東日本大震災以後にキャリアをスタートさせた最近の若手建築家の活動についてどのような印象をお持ちでしょうか。
五十嵐:30代前半の若手建築家に関しては、まだ実作も少なく全体としての特徴はよく分からないというのが正直なところです。ただ、以前に比べて住宅以外の作品が目立つという印象はあります。今年の夏に八王子夢美術館で行なわれた「戦後日本住宅伝説」展を見ると、7O年代当時の建築家たちは如何に変わった、前衛的な住宅をつくって、注目されるか、ということを競いあっていた気がします。しかし最近では、インテリアやリノベーションなど以前では発表しなかったような仕事まで、勝負の「建築」作品にとして勝負しなければいけない状況にある様です。『住宅特集』などの雑誌でもリノベーションの特集を組んだり、インテリアのアワードといった意味合いが強いJCDデザインアワードを受賞する建築家が2000年代に入って増えてきたということが、それを物語っていると思います。
塚越:人口が増加し住宅が不足していた20世紀後半は、「持家政策」の後押しもあり30代で住宅を取得する風潮がありました。そうした流れが住宅作品で若手建築家がデビューするという土壌をつくっていたと思います。しかし21世紀を迎え、人口が減少しはじめ経済も停滞する中、住宅やオフィスビルのストックが過剰となったため、若手がデビューする作品の主戦場が移っていったというのが実情なのではないでしょうか。
※「持家政策」とは、1960年以降、国が住宅不足を解消するため、そして経済活性化のため、当時の標準であった「夫婦と子供二人」世帯を強く意識した郊外の庭付き一戸建住宅を推奨する政策のこと。当時は30代〜40代の家庭が戸建の家を建てることが一つの風潮となっていた。
五十嵐:そういった実情は、定期的に行なわれているブルータスの特集「約束建築」の最新号がリノベーションを扱うようになったことや、建築の新人賞にあたる昨年の吉岡賞受賞作品がリノベーションだったことにも象徴されていると思います。30歳から40歳になるあたりに住宅を建てたてて、友達だった同世代の建築家に依頼するというモデルが崩れているとしたら、一番影響を受けるのは現在の若手建築家でしょうね。
また一方で、東日本大震災は土地と家を所有することのリスクを社会に突きつけたと思います。確かに戦後は持ち家政策が経済を活性化させる要因となっていましたが、諸外国と比較すると大多数の人が一定の年齢までに土地と家を取得するというモデル自体特殊なものです。幸い戦後はしばらく大きな震災がなかったため、そういったモデルを疑問に思うことがなかったのかもしれません。京都大学で災害を研究されている牧紀男さんは、東日本大震災のような大きな地震が増える時期を迎えていると予想し、現在の家のあり方に疑問を投げかけています。実際にそうなのだとしたら、そもそも土地と家を所有するという仕組み自体を考え直す時期なのかもしれません。
塚越:地方における空き家の問題等、住宅を取り巻く環境が変化しているのにも関わらず、未だに持家政策を前提とした核家族の為の住宅が無批判につくられている状況に対して、これからの建築家は向いあっていく必要がある気がします。
五十嵐:私個人としては新幹線のような地域間を繋ぐインフラの交通費が安くなれば、人が複数の地域に住むことがもっと現実的になり、空き家利用を活性化することができると思っています。僕もそうですが、地方に実家があって上京したままの人は、けっこう多いので、二つの家を行き来する二地域居住がしやすくなると、日本の生活は大きく変わるのではないでしょうか。新幹線等はもうすでに初期投資を回収できているはずなので、非現実的な話しではないはずです。リニア新幹線をつくるよりも効果的なのではないでしょうか。現状の政策では、空き家を強制撤去できるよう整備していますが、それらを活用していく方法もあるはずです。
2:街の何を残し、何を加えていくか
松葉:そのように住宅政策や人口の推移によって、近年リノベーションやインテリアの作品が目立つようになってきています。最近では一般誌でもリノベーション特集を目にするようになりましたが、そのる中で気になるのは、「既存のものを再利用する」という反論し難いロジックをつかい、周りを説得する手段としてリノベーションを利用している事例があることです。
五十嵐:リノベーションや建築の保存については、基本的には現在以上にモノが残るほうが良いと思っています。しかし、へんに原理主義に陥らず、その妥当性について個別に考えることが重要です。例えば新国立競技場建替えに関する反対運動の中には、既存の国立競技場や、大正以降になってつくられた神宮外苑の人工的な景観を過度に高く評価するものがあり、そうしたものの絶対的な保存が手放しに正当化されることに対して疑問を覚えます。彼らは自分たちが享受した20世紀半ばが大好きなのでしょうが、それを固定化すると、逆に次世代の未来を奪います。大枠としては街の中に様々な時代の建物が重なっている風景が豊かだと考えているので、良いものは残し、ただ、新しい価値を生みだすものは受け入れ、更新していく方が良いあり方だと思います。
塚越:新国立競技場問題については、五十嵐さん達が発信されているメディア、建築系ラジオの中でも何度か議論されていたと思います。その中で、日本だとどうしても「アイコン建築」というものに拒絶反応が強く出てしまうという話しが印象的で考えさせられました。歴史的にみるとルネサンスの建築家アルベルティに代表されるように、元々建築家は技術と別の次元でデザイン=形を生みだすという側面もがあり、そういった能力がイノベーションを生んできたという事実が日本の専門家の中でも以外意外と共有されていないと議論されていました。
五十嵐:確かに、日本には巨大建築やモニュメンタルなものが歴史的に少ないという事実はあります。もちろんそれは小さい国土の問題もあれば、良くも悪くも権力が過度に集中していないということも影響していると思います。例えば隣国の中国では歴史的に見ても、巨大なスケールで建築や都市をつくっているし、モニュメンタルなものがより多く存在しています。日本の古建築は細部に関しては洗練されていますが、大きな空間構成を扱っているものは多くありません。もちろん1964年の東京オリンピックのタイミングで、丹下健三さんが設計された建物のようにモダニズムとモニュメンタルなものを融合するものも登場しましたが、一般的に日本の同調圧力を伴う雰囲気があまりそういったものを許さなかったのかもしれません。
また、最近ではそういった雰囲気がソーシャルメディアを通して更に加速しているような気がします。新国立競技場コンペに勝利したザハ・ハディドやレム・コールハースのような世界的な建築家が手掛けたモニュメンタルな作品は、アジアをはじめ主要な世界の都市では当たり前につくられ、むしろ標準になっています。しかし日本の再開発では、目立つことで、叩かれるのを恐れるからなのか、建築史家の鈴木博之さんが「ビジネススーツビルディング」と批判したような個性を押し殺した建物に落ち着いている状況です。
3:都市について語ることの重要性
塚越:新国立競技場のデザインを選定するときにも、オリンピックを通して東京という街をどのようにしていくべきなのかという議論が不十分だったのではないでしょうか。それを抜きにして個別のデザインの善し悪しを語るのは余り意味がないような気がします。その関連でいうと、五十嵐さんは著書の中で1970年代以降、建築家たちは都市や大きなビジョンについて語らなくなってしまい、そういった活動が停滞していたことが東日本大震災後の復興計画において、世界的な建築家が日本にいるにも関わらずその構想力が国や地域から求められなかったことの一因となっているのではないかと分析され、都市について語ることの重要性をあげていらしたと思います。なぜ建築家は1970年以降都市について語らなくなってしまったのでしょうか。
五十嵐:1960年代ではまだ建築家が都市計画に参加できると考えていましたし、当時若手だった黒川紀章さんや菊竹清訓さんらは壮大な未来都市のヴィジョンを提案し、それが注目を集めていました。また、ハウスメーカーの商品化住宅販売が本格化する以前には、広瀬鎌二さんなどの建築家がシステム化の開発に関わっていました。しかし都市計画が実現されると、建築家は蚊帳の外になり、実際に1970年代に新宿西口周辺の超高層ビル群を設計したのは大手組織設計やゼネコン設計部でした。また、本格的に商品化住宅が郊外などに展開していくと、結局、建築家がデザインするような住宅は売れないとして外され、販売するために甘ったるい装飾がついたショートケーキ住宅がつくられました。
70年代は景気も悪くなりますが、建築家は磯崎新さんが語ったように「都市から撤退」し、表現の前線が都市住宅に変わります。その後、バブル経済を迎え、商業施設やハコモノの建設が活発化し、今度はゆっくり考える間もなく、目の前の仕事に追われるうちに四半世紀が過ぎていたというのが実情なのではないでしょうか。
松葉:都市レベルの問題について語ることの重要性が高まる一方で、現実には制度等の問題等があり建築家が関わることが難しい。このような状況のなかで、これからの建築家にはどのようなことを行なうことが重要だとお考えですか?
五十嵐:最近では紙メディアの勢いが衰えているようですが、学生の卒業制作を扱った展示や出版は増えているような気がします。ただ、今後のことを考えるのであれば、30代の建築家の考えを示すものがもっとあっていいのではないでしょうか。もっとも、プリズミックギャラリーはそうした貴重な場になっていますが、展示といっても単に近作紹介になってしまうよりは、架空のプロジェクトやもっと大きな構想、マニフェストなどを示して欲しいです。例えば、藤村龍二さんは展示を上手く活用していたと思います。展覧会もメディアだということをもっと意識する必要があるはずです。
松葉:歴史的にみて、上の世代の建築家はどのように展示を活用していたのでしょうか。
五十嵐:日本における近代建築家の出発点である堀口捨己らの分離派は、卒業してすぐにマニフェストを伴った展示を行なっていました。当時は美術館の数もさほど多くなかったので、百貨店における展示がそういった活動の貴重な場所になっていたようです。1960年代の環境というキーワードが最初にでてきたとされる、「空間から環境へ」展の会場も百貨店です。磯崎新さんやアーティストが参加していました。百貨店の展示は開催期間が一週間程度と短いものが多く、当時どれだけ影響があったかはよく分かりませんが、展示として記録されることで、後に歴史として参照されたり注目されるということもあり、重要な活動だったと思います。
4:設計/デザインするということに対する社会の理解を深める
松葉:また、都市の問題に限らず建築家がどのようなことを考え、どのようなビジョンをもっているのか。またどのような体制のもとに業務を進めているのかということを世の中にしっかり理解してもらえるということが如何に重要か、新国立競技場の問題をみていて感じました。
五十嵐:建築家の仕事と社会を繋ぐという意味では、山崎亮さんがおこなっているコミュニティデザインというものを上手に活用することが重要だと思います。東日本大震災後の世の中の風潮としてハコモノに費用をかけることに対しては批判されがちですが、ワークショップなど、建物をつくるプロセスや住民をとり込んだ運営システムのデザインに費用をかけることは好意的にとられています。いままでの事例では建物等のハードのデザインはおこなわず、システムのデザインに終始することが多かったようですが、最近では伊東豊雄さんや青木淳さん、乾久美子さんという建築家と仕事をされています。その結果どのようなものが出来上がるのか興味深くみています。コミュニティデザインという分野はまだできたばかりですし、プロセスや仕組みのデザインになるため、どのように評価すれば良いのかはっきりしないという部分があるのも事実です。当事者以外で客観的な評価ができる人材が現れることによって、今後こういったやり方が確立していくのではないでしょうか。
塚越:新国立競技場の問題だけに限らず、最近の東京オリンピックのエンブレムの問題を見ていると、インターネットが普及したことによって、一般の人でも注目の話題について活発に意見しているのが分かります。内容を見ていると建物を設計したり、ものをデザインするプロセスやその体制に対する誤解が批判を加速させているような感じがあります。
五十嵐:新国立競技場の設計も、東京オリンピックのエンブレムについても余り時間をかけず、簡単におこなわれているかのように誤解されているのは悲しい事態だと思います。またグラフィックデザインに関して、世界中のデザイナーは皆バウハウス以降の近代的な教育を受けているはずなので、歴史的に考えると、ベルギーのリエージュ・シアターのロゴの模倣から東京オリンピックのエンブレムができたと考えるよりも、いずれも同じ根っこのデザインの潮流から、類似した2つが生まれたと考えるほうが自然な気がしますね。
塚越:しかもあれは単純な幾何学の組合せですし、あれが模倣と見なされてしまったらグラフィックデザイナーは何もできなくなってしまうのではないでしょうか。一歩踏み込んで考えると、何がオリジナルなもので、何がオリジナルではないかという話しは簡単に線引きできるものではないはずです。しかし現状では、感情論や印象論で語られる批判が多い気がしています。
五十嵐:最近でも30代の若手建築家のリノベーション作品が、安全性に極端に偏った視点から、危険だらけだとソーシャルメディアで批判されるということがありました。そもそもものごとを過防備的に考えること自体疑問に思いますし、特にその作品は個人住宅のリノベーションで、クライアントとのコミュニケーションを経てできたものです。不特定多数の人が使う公共施設ではなく、施主のための個人空間です。筋が通っていない批判がメディアをにぎわせている状況が、今後の若手の活動にどのような影響を与えるのか気になりますね。
松葉:良くも悪くも議論に上がるということは、それなりに意義あるものをつくっているという側面もあるのではないでしょうか。そういった反応を過度に恐れる必要はないかもしれませんが、建築家がどのようなことを考え、どのように設計をしているのか世の中に理解してもらえるよう改めるべき部分は少なくないようですね。
塚越:全体をとおしてお話を伺っている中で、持ち家政策と時代のズレに対して建築家はどういったスタンスをとるのか。また街にある何を評価し、何を加えていくのか。そしてその先にどのような街のビジョンを描くのか。ソーシャルメディアが普及しデザインに対する世の中のチェックが厳しくなるなか、設計/デザインすることへの社会の理解をどのように深めていくのか。最近漠然と感じていた課題が少しははっきりしたような気がします。
塚越智之
1983年生まれ。建築家。 2006年デルフト工科大学留学 2009年東京工業大学大学院修士課程修了。 吉村靖孝建築設計事務所勤務を経て、現在 ツ+ミ/塚越宮下設計 共同代表、日本工業大学 非常勤講師を勤める。 U30 architects exhibition 2013選出。製材端材を利用した積層型ユニットシェルフで第18回木材利用コンクール 木材利用特別賞を受賞。
今回の対談はYCC ヨコハマ創造都市センター 1Fのカフェ オムニバスのご協力のもと下行いました。
「YCC ヨコハマ創造都市センター」は、1929 年に建設された歴史的建造物「旧第一銀行横浜支店 (一部復元) 」を用いた、横浜市が推進する「クリエイティブ・シティ構想(創造都市構想)」の拠点施設です。 デザインやアートなどのクリエイティブ分野と、産業・経済・地域などを結びつけ、個人から企業、また子供から年配の方々まで、幅広く利用していただける事業やプログラムを実施すると同時に、横浜の産業振興・地域活性へと繋げていく役割を担っています。 創造性(クリエイティビティ)とは、デザイナーやアーティストなどクリエイティブ分野の人々だけが有する能力ではなく、子供、主婦、会社員、年配の方など、誰もが潜在的に有する能力と、 YCCでは考えています。新たな商品を開発する、作品を作るだけでなく、社会に役立つ仕組みを考える、新たな活動を始めてみる、子供達が楽しめるイベントを開催するなど、さまざまなシーンでさまざまな人々が、その創造性を発揮できるよう、人が集い、出会い、発見し、新たなものが生み出されていく場所となることを目指します。
YCC ヨコハマ創造都市センター
概要
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株式会社 TYRANT 代表取締役 / 一級建築士 ( 登録番号 第 327569 号 ) 1979年東京都生まれ。東京藝術大学大学院修了後、事務所勤務を経ることなく独立。人生で初めて設計した建物が公共の文化施設(旧廣盛酒造再生計画/群馬県中之条町)という異例な経歴を持つ。また、同プロジェクトで芦原義信賞優秀賞やJCD DESIGN AWARD新人賞などを受賞。